やーちゃんばーちゃんの石ころ人生 第2章

「やあちゃんばあちゃんの石ころ人生」 

                 第2章

 年末年始はみんな忙しいのでバレーボールの練習が始まったのは一月の九日からでした。
仕事を終えてみんなが揃うのは七時半ごろ。年始の挨拶も終わって「さあ今年もガンバロー!」と言うことで、いつもの練習に入りました。サーブとかレシーブとか、私も結構出来るようになっていました。練習が終わって家に帰ってきたのは夜九時半頃だったでしょうか。
 いつもなら父ちゃんと昌樹と祐樹が炬燵に足を入れてテレビを見ているところなのに、その日は父ちゃんと昌樹の二人がテレビつけっぱなしで炬燵でうたた寝をしていました。こんなことはよくあることでしたが、祐樹がいないってことはいつもと違うことでした。
 何か急に不安になって、すごく不安になって、「祐樹は?祐樹は?」と二人を起こしました。二人も「あれ?祐樹どこへ行ったんだろう」と、きょろきょろしていました。家の中にはいませんし、今と違ってコンビニなんかもありません。外は外灯もない田舎です。子どもが一人で夜出かけることは、まずありません。
 こんなのって何と説明したらいいのでしょうか。恐ろしいほどの不安が襲ってきて、私の不安が二人にも移ったのか「探そう」ってことになって、三人で手分けして外に出ました。私は愛犬のクムを連れて探しました。クムが一直線に現場に引っ張って行きました。
 
 私が祐樹を見つけた時はまだ体は温かかったです。・・・が、手の先が異様に冷たくなっていたことを覚えています。父ちゃんも昌樹も駆けつけて来ていて、すぐに救急車を呼びました。病院に運ばれ、救命処置が行われましたが・・・
祐樹は死にました。
 もう四十年も経っているのに、その時のことを書くのは胸が潰れそうで、筆が重くて進みません。
 祐樹の死後一カ月も経たないある日、私は天満町にあったインマヌエルキリスト教会へ行きました。(後年インマヌエルキリスト教会は長沢町に移りました)なぜキリスト教会へ?仏教徒の家の私が?・・・。
我が家の宗教は仏教で、祐樹のお葬式も仏教でしました。それではなぜキリスト教会へ行ったのか・・・。理屈ではありません。たまらなく行きたかったのです。とにかく教会へ行きたかった・・・。

※令和2年 2月11日 FB ブログでアップ済み

 実は祐樹は、中学一年生の頃からラジオを聴くのが好きで・・・と言うより、ラジオで世界中のラジオ局の放送をキャッチして受信報告を送っていました。そうするとそのラジオ局からベリカードと言うのが送られてきて、そのカードを収集しては喜んでいました。そういうことが当時若者たちの間で流行っていたのです。ベリカードが送られてきた時は、それはそれは嬉しそうに私に見せたものです。そして自分の机の周りに貼って、悦に入っていました。

 ある時、FEBCと言う放送局をキャッチしました。それは韓国のチェジュ送信所から送られてくるキリスト教の日本語放送でした。
「母ちゃん。今どき『神様がいる』なんてことを本気で言っているよ、この放送。バカバカしい、・・・変なの・・・」と言っていましたが、ベリカードが送られてきてからも続けてその放送を聴くようになりました。それこそ「変なの」・・・でした。
 FEBCキリスト教放送。それが祐樹がキリスト教に触れたきっかけでした。中学一年生でした。放送が始まるのは夜の九時半だったので、その時間になると自分の机のところに行って聴いていました。

 中学生ともなるといろいろ悩むこともあり、私に悩みごとを相談するようになりました。親子の会話がないと言われている時代に、家の子たちは私に悩みごとを言ってくれて、それはとても良いことだったんですが、なんといっても祐樹の相談は私の手に負えるものではありませんでした。
 「ねえ、母ちゃん。人間は何のために生きるん?」とか、「ねえ、人間はどこから来て、どこに行くん?」とか、「死んだらどうなるの?」とか・・・。考えてみれば私自身が中学生の頃悩んだことだったんだけど、結局わからなくて、そのままうやむやにして大人になっていたことでした。その私自身がわからないことを聞いてくれるもんだから、「そんなこと考えんで、勉強しんさい(しなさい)」とか言ってしまいました。
でもなあ、「人間は何のために生きるん?」「僕みたいなのが生きていて何の役に立つんだろう」と言った時、私は私自身がその言葉に励まされて生きた、あの石ころのこと、あのイタリア映画「道」の中で、綱渡りの芸人が言ったあの言葉、自分の情けなさに打ちひしがれていたジェルソミーナが「石ころだって何かの役に立つから、そこにあるんだよ」と言われて、あの大きな目を見開いたあの言葉、あの言葉を祐樹に教えてやればよかった。ほんとにそうすれば良かった。・・・だからと言ってそれがどうにかなったかどうかはわからないけど、私の心に悔いが残ってしまった。
 祐樹が、私の手に負えないことを聞くもんだから、彼が「教会に行きたい」と言った時は、「いいよ」と言いました。私のわからないことは教会に行けば何とかなるかもしれないと思ったのです。それで彼は、念願のキリスト教会に行くようになりました。中学三年生の秋でした。

※令和2年 2月26日 FB ブログでアップ済み

 教会には一週間に一回行くのですが、一週間に一回では物足りないらしく、毎日のように「早く教会に行きたいなあ」と言っていました。教会ってそんなに行きたいものなんかなあと思いながら、まあ、祐樹の悩みごと一件落着って思って、良かった良かったと思っていました。でも、「洗礼を受けたい」と言った時は大反対しました。「とんでもない、親せきの人から何を言われるか・・・、家は仏教なんだからね」・・・と。
 教会ってそんなに良いもんなんかなあ。祐樹が毎日のように「教会行きたい」って言っていた。私が、「そんなにのめり込んじゃあいけん、家は仏教なんだからね」って止めていた。・・・
私は一体何をしたんだろうか・・・。

 祐樹の死後、私が教会に行くのに勇気なんか要りませんでした。だって、矢も盾もたまらなく、教会に行きたかったんですもの。玄関の建てつけの悪い引き戸をガタガタと開けて入ったところ、二人の女の牧師さんが出て来られました。そして、
「うわ――素晴らしい!。神様こんなに早く私たちの祈りを聞いて下さった」と、二人で手を取り合って喜ばれたのです。私は呆気に取られて玄関に立っていました。その後で会堂の中に招き入れられてお話を聞くと、祐樹が死んだことは新聞で知ったこと、(当時は十五歳の子の自死はニュースになって、テレビや新聞で大々的に報道されましたから・・・)
「それで、祐樹君の親御さんが教会に来られますようにと、毎日お祈りしていたんですよ。神様がお祈りに応えて下さったんですよ」と、言われました。ここにも本当に神様を信じている人がおられました。私にとっては経験したことのない、別世界でした。ああ、祐樹はこの世界に憧れていたんだなと、思いました。

※令和2年 3月16日 FB ブログでアップ済み

 それから私は毎日教会に行きました。祐樹が毎日「教会に行きたい」と言った気持ちがわかってきました。毎日アポなしで突然訪問していたのに、牧師さんはいつも快く応対して下さり、私の思いを丁寧に聞いて下さいました。そして必ず最後には聖書を開いて読んで下さいました。時には慰めの言葉だったり、時には厳しい言葉だったり、聖書にある言葉を読んで下さいました。特に私の心に残った言葉は「人は皆、罪を犯す者で、その罪の赦しがなければ神の前に立つことは出来ない」と言うことでした。厳しい言葉なのに、私の心はなぜかすっきりして、頷いていました。

 アポなしで突然行くものですから、時には主任牧師が不在のこともありました。ある日、丁度主任牧師が不在の時に行って副牧師の方が対応して下さいました。この副牧師さんはまだ神学院を出たばかりの若い牧師さんでした。主任牧師さんと同じように、私の話を丁寧に聞いて下さいました。でも、私が泣くもんだから、泣いて泣いてどうしようもないもんだから、どうしたらいいのかと困ってしまわれたらしく、
「河上さん。私どうやってお慰めしたらいいのかわからないから、賛美歌を歌いますね」と言って、賛美歌を歌われました。それはそれはきれいな声でした。二曲三曲と歌って下さるうちに私の涙も収まりました。神学院を出たばかりで、未熟とはいえ、何とかして私を慰めようとして下さったその姿は、私には忘れられませんでした。こうして私には泣きに行く場所があり、慰めを受ける場所があり、辛い心も癒されて行きました。だから仕事にもわりと早く復帰することが出来ました。
 私は思うんだけど、自分は誰かの役に立ちたいと思うことがあったら、その人の話を聞いてあげると言うことはとても良い事だと思います。その人の悲しみや苦しみに少しでも近づいて寄り添ってあげたらその人は早く元気になれると思います。自分の説教は絶対にしないこと。牧師さん達はほんとによく話を聞いて下さいましたから・・・。

※令和2年 4月3日 FB ブログでアップ済み

 私は子どもの頃から人前では滅多に泣かない人でしたが、教会ではよく泣きました。安心して泣きました。だから家に帰ったら、家では泣きませんでした。私が泣いたりしたらみんなが心配しますからね。だからいつもポケットに目薬を入れていて、不覚にも涙が出た時には「今、目薬を入れたところ・・・」とか言ってごまかしていました。バレてたと思うけど・・・。
 こうして教会には毎日行くことはなくなりましたが、日曜ごとの礼拝には必ず出席するようになりました。講壇から語られる牧師先生のメッセージが私の心にぐんぐん入ってきて、本当に今までの自分の人生がピント外れで、神様の教えよりも自分の考えに一生懸命努力していたことが分かりました。

 牧師先生が「河上さんはまるで砂が水を吸うように聖書の教えを理解していかれますね」と言って下さいましたが、これもまた、聖書の中に書かれている、イスラエルのダビデ王様の言葉の通りです。ダビデ王様は言いました。
「苦しみにあったことは私にとって良いことでした。私はこれによって神様の教えを学びました」って。
 ほんとにそうです。もし祐樹が死ななかったら、しかも自死と言う苦しみを通らなかったら、たとえ教会に行っても、たとえ聖書を読んでも、人の事の様で私には解らなかったと思います。そうなんですよ。祐樹が生前「母ちゃんも聖書を読んでごらんよ」と言ったので、新約聖書、マタイの福音書を読み始めたんです。でも、何の事かさっぱり分からず、早々に投げ出してしまったんです。

 でも、今は違いますよ。教会に行き始めてからすぐに、創世記一章一節から最後の黙示録まで一気に読みました。聖書通読の始まりです。二回目からは丁寧に読みました。聖書を読むだけでは解らない事が多いので、注解書も読みました。創世記から黙示録まで一日一章づつ読むと三年半かかります。私は今、十回目を読んでいます。聖書通読を百回したという人の事を聞いたことがありますが、私は通読の回数が多けりゃいいと言うもんではないと思います。聖書は神様からの語りかけ、しっかり聞き取って応答しなければと、思っています。・・・なんてことを言ってはいるけど、私自身も毎日読んでいると時には目が字の上を通り過ぎているだけってこともあって、おっとっとということで、又後戻りして読んでみたりして・・・。信仰を持った初めの頃に一日一章以上を必ず読もうと決心して四十年経った今まで続いています。私の努力ではなく、ただ神の恵みと思っています。聖書を毎日読むのは、食事を毎日するのと同じです。時には美味しいこともありますが、時には苦かったり、辛かったり、拒絶したくなったりします。

※令和2年 4月25日 FB ブログでアップ済み
 
 聖書通読についてちょっと書いておきます。私の場合ですが、創世記一章から始めて、一日一章は必ず読むことに決めました。病気かなんかで読めなかったときは、次の日二章読みました。ここのところは厳しく自分に課しておかないと、私という人間は放り出してしまいかねないと思って、頑張りましたよ。それから、聖書を読む時は、聖書注解書を一緒に読んだ方が断然いいです。注解書にはその時代の事や、その背景、その地域のしきたりとかが、色々書いてあるので、聖書に書いてある事がよく理解出来ます。
 因みに、私が使っていた注解書は主に次のものです。

   ウエスレアン聖書注解  新約篇       イムマヌエル綜合伝道団出版局
   ウエスレアンバイブル注解  一巻――三巻  イムマヌエル綜合伝道団出版局
   新約聖書講解シリーズ            イムマヌエル綜合伝道団出版局
   新聖書講解シリーズ 旧約          いのちのことば社

 そのほかにも何冊かありますが、これらの注解書は私が大切に使っていたもので、棚に揃えて取ってあります。
私の子孫たちよ。私の聖書と注解書、これこそ私が残す財産だから、決して捨てないでね。これらのものは何十年経っても何百年経っても変わる事のない価値あるものだから折々に開いて見て下さい。特に聖書には私の書き込みが生々しくビッチリ書いてあるから・・・。それに聖書って読んでみると結構面白いよ。

 創世記は天地の創造から植物・動物・人間の創造。・・・その、人間に罪が入り、各地に散らされていく様・・・。それはそれは壮大な物語です。また、サムエル記・列王記・歴代誌とイスラエルの国の歴史も壮大です。その他にもいろいろな物語が散りばめられています。エステル記の最後のどんでん返しは胸がスカーっとしますし、雅歌書はイエス様からの熱烈なラブレターに見えます。ヨブ記は苦しかった時にどれほど励まされたことか・・・。このヨブ記ね、読んでご覧よ、シェークスピアの舞台劇みたいですよ。

クリスチャンは聖書の言葉を「みことば」と言いますが、苦しい時、辛い時、あるいは絶望の時、聖書のみことばが突然目に、胸に、グーンと飛び込んでくるんですよ。こう言うのを神様から私個人に「みことばが与えられた」と私たちクリスチャンは言います。そして与えられたみことばを信じて祈って行きます。いちばん覚えているみことばはこれです。
“たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽を吹き、苗木のように枝を出す。”(ヨブ記十四章八,九節)

このみことばは父ちゃんが末期の癌で入院した時に与えられたみことばでした。父ちゃんったら前から具合が悪かったのに、病院に行くのが怖くて私や周りの人がどんなに勧めても行こうとしなくて・・・、病院に行った時にはもう末期でした。治る見込みはないとお医者さんに言われて、それならなおさら一日でも早く、イエスキリストを自分の救い主と信じて、平安の内に天国への希望を持って最後を迎えてほしいと、切実な思いで祈っていた時に、私に与えられたみことばでした。

※令和2年 5月15日 FB ブログでアップ済み

 父ちゃんの看病は私と昌樹で交替しながら付き添っていました。父ちゃんは痛みで昼も夜も眠ることが出来ませんでした。何十日も病床での苦闘が続いて父ちゃんも苦しかったことでしたが、付き添いの私たちも疲れ果てました。父ちゃんが入院した時には、すでに半身マヒしていて、寝返りさえ自分で出来ない状態だったのです。それで、私たち家族が二十四時間付き添わなければならない状態になっていたのでした。
 ある日、見かねた牧師先生が私の代わりに付き添いを買って出て下さいました。二,三時間牧師先生に付き添いをお願いして、家に帰って洗濯したり、片付けをして病院に戻ってみたら、何と父ちゃんスースー寝息をたてて眠っているんです。あんなに苦しくて、眠れなかったのに・・・。目をまん丸にして呆気にとられている私に、牧師先生が話して下さいました。
「父さんにね、こういうふうにお話ししました。『すべての人は罪を犯しているので神様の前に立つことが出来ないんですよ。でも、自分の罪を言い表して、悔い改めるなら、神様は赦して下さるんです。なぜ赦して下さるか、それはですね、イエス様があなたの身代わりになって罪を引き受けて下さって、十字架刑にかかって下さった、その事を信じた人は神様の子どもとして下さるんですよ。』って、罪の話と天国の話をしたんですよ」と。そして続けて言われました。
「父さんはね、『確かにわしもわるいことしたもんですよ』と言って、自分のやったこと(悪い事)色々言われましたよ。それで『神様に赦していただきましょうね』と言って、お祈りしたんですよ。そうしたら父さん、安心されたようでスヤスヤ眠ってしまわれたんですよ」・・・って。これこそ父ちゃんが水分に出会ったんですね。みことばの通りになりました。この事は私にとって、すごい経験になって、その後の生活に一本筋が入った感じでしたよ。父ちゃんはその数日後に病床洗礼を受けて、平安の内に天国へ行きました。

※令和2年 6月5日 FB ブログでアップ済み

 父ちゃんが死んでから、またまた私の人生は変わりました。看板屋は閉じ、父ちゃんの生命保険で借金は全部返し、父ちゃんが保証人になって被ってしまった借金も全部返し、残ったお金で車の運転免許を取りました。
 
家も高左町から国分町に引っ越ししました。国分町の家は実は妹の家で、妹が新しく家を建てたので空いた古い方を借りたのです。今度の国分町の家は前の高佐町の家に比べて倍以上の広さがあって、昌樹と二人で住むには広いものでした。でもこの広い家に次々と人が増えて、いっぱいになりました。まず私の実家のおばあちゃんが国分の家に来て、私と一緒に住むことになりました。おじいちゃんは数年前に亡くなっていました。おばあちゃんとは私のお母ちゃんの事ですよ。歳を取って介護が必要になったので私が引き受けることになったのです。そして昌樹が結婚して、孫が次々と三人も生まれて、それはそれは賑やかな家になりました。孫が生まれたので私はばあちゃんになり、おばあちゃんはひいばあちゃんになりました。賑やかな家族に囲まれて、愛されて、ひいばあちゃんはいつも「嬉しい嬉しい」と言いました。

※令和2年 6月20日 FB ブログでアップ済み

 ひいばあちゃんがイエス様を信じた時の事を書いておきますね。国分町に移ってから、私は家でキリスト教の家庭集会を開きました。月に一度、牧師先生に来ていただいて、聖書のお話をしていただきました。集まって来た人たちは多い時には、七,八人集いました。ひいばあちゃんも加わって聞いていました。
 ある日、ひいばあちゃんが牧師先生に打ち明けました。「私は今まで、息子の嫁が意地悪で、私がここで暮らすようになったのは嫁のせいだと思っていましたが、いえいえそうじゃない、私も悪かったんだと分かりました。それに私はここで暮らすようになってから、八千代が信じているキリスト教が本物だと思いました。」と言いました。そして間もなく洗礼を受けました。ひいばあちゃんは教会で兄弟姉妹方の祝福の内に洗礼を受けました。とても嬉しい洗礼式でした。

 ひいばあちゃんが我が家に来て十年経ちました。ひいばあちゃんはだんだん体力が落ちて寝たきりになって、私の介護もハードになって行きました。それでもひいばあちゃんは「嬉しい、嬉しい」と言っていました。
 ある晩、ひいばあちゃんがこう言いました。
「八千代や―。草履を持ってきてくれ」って・・・。
「えっ?ぞうり?草履履いてどうするん・・・?」そうしたらびいばあちゃん、
「あそこへ行くんだあや」って、天を指さしました。
 それから二,三日後に本当に天に行きました。それも私の腕の中で・・・。痰が絡んで辛そうだったので、抱き起こして、吸引機で痰を取ってあげたところ、そのまま楽そうに息を引き取りました。ちょうどその日の朝、妹も
「今日の調子はどう?」と言いながらやって来たところで、ひいばあちゃんは愛する二人の娘の見守りの内に息を引き取ったのです。

※令和2年 7月21日 FB ブログでアップ済み

 ひいばあちゃんは生前、
「私が死んでも泣かんでいいよ。私は息が切れると同時に天国に行っているからね。体はただの抜け殻だからね」と言っていました。だから私は泣きませんでした。ひいばあちゃんは草履を履いて、イエス様に手を引かれてレッドカーペットを歩いているんだなあと思いました。

 お葬式は教会でしました。ひいばあちゃんの遺言でしたから・・・。ひいばあちゃんのベッドの枕元の箱の中に紙切れが入っていて、
「わたしの葬式は教会でせえ(しなさい)」と書いてありました。小学校しか出ていないひいばあちゃんの、カナ釘流のたどたどしい遺言でした。だからお葬式は教会でしましたよ。親せきの中には
「八千代が無理やりキリスト教なんぞに、引き込んだんだろう」なんて理解のない事を言っている人もいたけど、ま、言いたい人には言わせといて、葬儀は無事に済みました。天国から見えるとしたら、きっとひいばあちゃんは、喜んでいるだろうなと思いました。

 焼き場でのひい孫たちの様子を書いておきましょうね。ひいばあちゃんのお棺が焼却炉に入れられる時、四歳のひいちゃん(光)が言いました。
「ひいばあちゃん、バイバイ、又ね」って・・・。「又ね」って言ったんですよ。この子四歳なのに、ひいばあちゃんは天国に行っていて、又、会えるんだと分かっていたのでしょうね。幼児の信仰は純粋です。ところで二歳の祈ちゃんはどうしていたか・・・。祈ちゃんは待合室の廊下で一人でダンスを踊っていました。とても上手なステップでした。今、二十歳の祈ちゃん、やっぱりダンスが上手です。歌も上手です。一番上のお姉ちゃんの雪ちゃんはどうしていたかと言うと、その日はピアノの発表会だったのでお葬式に出られませんでした。ピアノの発表会と言ってもゲスト出演だったので穴をあけられなかったのです。雪ちゃん七歳、ゲスト出演するほどピアノ上手でした。発表会の会場にはピアノの先生が送迎して下さいました。ここまでが、焼き場での思い出・・・。大人たちが何をしていたかは記憶にございません。

たまにですが、
「キリスト教ってどんなご利益があるの?」なんて聞かれる事があるんだけど、
「ご利益ありますよ。聖書に書いてあるんです。
『御霊の実は愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制です』。これが神様からの賜物、つまりご利益ですよ」ってね。そう言います。

※令和2年 9月4日 FB ブログでアップ済み


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